定年後、家にいても地域にいても居場所がない男性へ
「感情を話さない夫」と地域デビュー
定年退職から3か月。朝6時に目が覚めても、もう乗る電車はない。新聞を隅から隅まで読み、昼前には読むものがなくなる。台所に立つ妻の背中に「今日の昼は?」と聞いたら、ため息まじりに「毎日家にいられてもねえ」。公民館の囲碁クラブのチラシは、冷蔵庫に貼ったまま。家にいても、地域にいても、自分の居場所がない。40年近く会社で働いてきた男性と、その隣で戸惑う妻へ。気持ちを言葉にすることから始める、定年後の居場所づくりを考えます。
会社を離れた翌朝から始まる「空白」
でも、その自由が、こんなに長いとは思わなかった」
会社は、仕事をする場所であると同時に、毎日行く場所があり、話す相手がいて、役割と肩書きが与えられる「居場所」でした。朝の「おはようございます」、昼の雑談、会議での発言、部下からの相談。意識していなくても、人とのやりとりの多くは会社の中にありました。退職すると、それらが一度に消えます。
この空白は、多くの男性にとって予想以上に大きなものです。けれど、それを言葉にする人はあまりいません。「さみしい」「心細い」「自分はもう必要とされていないのではないか」。こうした気持ちは、口にしたら負けのような気がして、胸の奥にしまい込まれます。そして、そのしまい込まれた気持ちが、妻へのいらだちや、昼間からの飲酒、外出しない生活として表にあらわれることがあります。
孤独感は、年代や性別を問わず、多くの人が抱えているものです。退職後の男性だけが特別なわけではありません。ただ、仕事を通じたつながりが中心だった人ほど、退職によってつながりが急に細くなりやすいのは確かでしょう。だからこそ、この時期の気持ちに目を向けることが大切なのです。
「感情を話さない夫」は、なぜ生まれるのか
心理学にはアレキシサイミア(失感情症)という言葉があります。自分の感情に気づき、ほかの感情と見分け、言葉にすることが難しい状態のことです。感情がないのではなく、感じてはいるけれど、それをつかまえて言葉にするところで流れが細くなっている状態です。研究によって約10〜16%、およそ10人に1人に強い傾向があるとされ、病名ではなく誰もが持つ特性の濃淡と考えられています。DSM-5やICD-11でも独立した診断名にはなっていません。詳しくはアレキシサイミア(失感情症)とは|感情に名前がつけられない人の特徴・原因・回復のヒントをご覧ください。
中島輝の近刊『感情を言語化すれば人生はうまくいく 感情迷子さんの本』では、感情をうまく認識・表現しにくくなっている状態を「感情迷子さん」と呼んでいます。迷子という言葉には、帰る場所があるという前提が含まれています。何歳からでも、気持ちの言葉は取り戻せます。
「男は感情を見せるな」で育った世代
アメリカの心理学者レヴァント(Levant)は、男の子が「泣くな」「弱音を吐くな」「男らしくしろ」と育てられる中で、傷つきやさみしさ、恐れといった「弱い」とされる感情を感じ取り、言葉にする力が育ちにくくなることを指摘し、これを「規範的男性アレキシサイミア」と呼びました。特定の人の問題ではなく、社会の「男らしさ」の規範が生み出す、ありふれた傾向だという考え方です。
今の60〜70代の男性の多くは、まさにこうした価値観の中で育ち、働いてきました。職場では「感情を持ち込まない」ことが大人のふるまいとされ、つらいことがあっても黙って耐えるのが当たり前でした。感情を表に出さないことで、会社の中ではうまくやってこられたのです。
ケンジさんが流した涙
『感情迷子さんの本』には、50代の経営者ケンジさん(仮名)が登場します。20代で起業し、百名を超える会社に育て上げたケンジさんは、幼い頃から「泣くのは無能の証拠」と教え込まれ、目標に向かって進むとき感情は「ノイズ」だと信じてきました。それは確かに成果につながりました。けれど、ノイズとして感情を切り捨てるのと同時に、「人生の彩り」まで捨ててしまっていたのです。「最近、何のために働いているのかわからなくなった」という虚無感を抱えて相談に来たケンジさんは、自分の感情そのものに価値があるのだと思えたとき、はじめて涙をこぼしました。
ケンジさんは現役の経営者ですが、同じことは定年を迎えた男性にも起こります。仕事という「目標」がなくなったとき、感情をノイズとして扱ってきた人ほど、何を頼りに毎日を過ごせばいいのかわからなくなるのです。会社にいる間は見えなかった空白が、退職とともに一気に姿をあらわします。
感情を見せずに働いてきたのは、
家族と会社を守るための努力だった。
これからは、その感情を自分のために使っていい。
名刺のない自己紹介ができない理由
地域の集まりに初めて参加すると、たいてい自己紹介の時間があります。そこで言葉に詰まってしまう男性は少なくありません。「○○商事で営業部長をしておりました」と言いかけて、なんだか場違いな気がして口ごもる。かといって、肩書きを外した自分を何と言って紹介すればいいのか、わからないのです。
これは、会話が苦手だからではありません。長い間、「何をしているか(役割)」で自分を説明してきたため、「どんな人か(自分そのもの)」を言葉にする機会がなかったのです。好きなもの、楽しいと感じること、最近うれしかったこと。そうした自分の内側にあるものを語る言葉は、感情の言葉と深くつながっています。
6つの感の「根」を育て直す
中島輝は、自己肯定感を一本の木にたとえ、6つの感で説明しています。根にあたるのが自尊心≒自己存在感、幹が自己受容感、枝が自己効力感、葉が自己信頼感、花が自己決定感、実が自己有用感です。
会社員時代の多くの男性は、「役に立っている」という実(自己有用感)や、「自分はできる」という枝(自己効力感)で自分を支えてきました。退職でそれが一度に落ちたとき、むき出しになるのが根(自尊心≒自己存在感)、つまり「何もしていなくても、自分はここにいていい」という感覚です。この根が細いままだと、肩書きのない自分には価値がないように感じてしまいます。
「気持ちの自己紹介」を準備しておく
地域の場に出る前に、肩書きを使わない自己紹介を一つ用意しておきましょう。コツは、名前+住んでいる場所+好きなこと(または最近感じたこと)の三つです。「○○町の山田です。最近、朝の散歩で季節の花を見るのが楽しみになりました」。「楽しみ」「うれしい」「気持ちいい」という感情の言葉が一つ入るだけで、聞く人はその人の人柄を感じ取り、話しかけやすくなります。
地域の集まりに足が向かないときの気持ちの整理
「行ったほうがいいのはわかっている。でも、どうしても足が向かない」。そんなときは、無理に背中を押す前に、足が止まっている理由の気持ちを確かめてみましょう。行けない自分を責める必要はありません。
- 知らない人ばかりの場で、どう振る舞えばいいかわからず不安
- 年下の人や女性が中心の場で、自分が浮くのではという気後れ
- 「元部長が何をしに来たのか」と思われそうな恥ずかしさ
- 会社では指示を出す側だったのに、新人として扱われることへの抵抗感
- 行ってみて楽しくなかったら、という失望への恐れ
こうした気持ちは、どれも自然なものです。そして、名前をつけるだけで、少し扱いやすくなります。神経科学者リーバーマン(Lieberman)らの2007年の研究では、感情に言葉でラベルをつけると、不安や恐れに関わる脳の扁桃体の活動が下がることが示されています。「なんとなく行きたくない」を「知らない人ばかりで不安なんだ」と言い換えるだけで、「それなら知り合いと一緒に行こう」「最初は見学だけにしよう」という次の一手が見えてきます。
「3段階温度計」で、不安の大きさを測る
『感情迷子さんの本』のワーク「3段階温度計」は、気持ちの強さを「ちょっと・そこそこ・すごく」で表すものです。「集まりに行くのは、ちょっと不安?そこそこ?すごく?」と自分に聞いてみてください。「すごく不安」なら、いきなり参加しなくていい。「ちょっと不安」なら、一度試してみる価値があります。気持ちの大きさに合わせて、一歩の大きさを決めればいいのです。
小さな入口から始める地域デビュー
地域デビューというと、自治会の役員や大きなボランティア団体を思い浮かべるかもしれません。けれど、最初から大きな場に飛び込む必要はありません。「目的がはっきりしていて、話さなくても居られる場」から始めるのがおすすめです。感情を話すのが苦手な男性ほど、手を動かしながら、少しずつ言葉を交わせる場が合っています。
階段のどこから上り始めてもかまいませんし、途中の段で長く休んでもかまいません。大切なのは、「行けなかった自分」ではなく「一段上ってみた自分」に目を向けることです。見学に行って黙って座っていただけでも、それは家を出て人の中に身を置いたという立派な一歩です。帰り道に「緊張したけど、行ってよかった」と心の中でつぶやけたら、その日の感情の練習は大成功です。
囲碁・将棋、写真、ウォーキング、合唱など
公民館や地域センターには、さまざまな趣味のサークルがあります。共通の関心があるので、話題に困らないのが利点です。囲碁や将棋なら対局中は話さなくてもよく、終わってから「あの一手は悔しかった」とひと言交わすだけで、自然に感情の言葉が出てきます。まずは見学から始めてみましょう。
見守り、清掃、子ども食堂の手伝い、施設での活動など
市区町村の社会福祉協議会には、ボランティアセンターが置かれていることが多く、活動の紹介を受けられます。「誰かの役に立つ」という手応えは、会社時代に育てた実(自己有用感)を、新しい形で実らせてくれます。子どもの登下校の見守りで「おはようございます」と声をかけられるだけでも、毎朝の行き先と、人とのつながりが生まれます。
経験を生かして、地域で短時間働く
おおむね60歳以上の人が、地域の仕事を請け負う仕組みです。植木の剪定、施設の管理、事務の手伝いなど、内容はさまざま。「働く」という慣れた形で地域に入れるので、いきなり趣味の場に行くのが照れくさい男性には、よい入口になります。仲間との休憩時間の雑談が、気持ちを話す練習の場になります。
「男の料理教室」などで、手を動かしながら話す
自治体や公民館では、男性向けの料理教室が開かれていることがあります。料理は、香り、音、手触り、味と、五感をたくさん使う作業です。『感情迷子さんの本』のワーク「五感スイッチ」と同じように、「いい香りだ」「うまい」と自然に感じたことを口にできます。家で一品作れるようになれば、妻との関係にも小さな変化が生まれるでしょう。
続けるコツは「気持ちを一つ持ち帰る」こと
地域の活動は、合う・合わないがあって当然です。一度行ってみて、合わなければ別の場を探せばいい。続けるコツは、参加するたびに「今日、どんな気持ちになったか」を一つだけ持ち帰ることです。「緊張した」「意外と楽しかった」「あの人の話がおもしろかった」。その気持ちをメモしておくと、自分に合う場所が少しずつ見えてきます。
家の中で始める、感情の言語化ワーク
地域に出る前に、まずは家の中で気持ちを言葉にする練習をしておきましょう。『感情迷子さんの本』では、感情に興味を持ちにくいタイプの人向けに、短時間でできるワークが紹介されています。会社員時代に「感情はノイズ」と考えてきた男性に、とくに向いているワークです。
1日3回、アラームが鳴ったら「今、どんな気分?」
スマホのアラームを朝、昼、夕方の3回に設定し、鳴ったら「今、どんな気分?」と3秒だけ自分に問いかけます。会社にいた頃の「始業のチャイム」の代わりに、自分の内側を確かめる合図をつくるのです。答えは「よくわからない」「なんとなく退屈」でもかまいません。退屈だと気づけたら、それは立派な感情の発見です。
出来事ではなく、感じたことだけを書く
寝る前に、その日の出来事ではなく「感じたこと」だけを手帳に書きます。「散歩で汗をかいて気持ちよかった」「妻と言い合いになって、むしゃくしゃした。でも少し悪かった気もする」「とくに何も感じなかった」。最後の「何も感じなかった」も、内側を見た証拠です。業務日誌のように出来事を並べる習慣が身についている人ほど、効果を実感しやすいワークです。
妻の話には、解決策より先に「大変だったね」
妻が近所や親戚の話をしてきたとき、「それはこうすればいい」と解決策を言いたくなったら、いったんこらえて「それは大変だったね」「疲れたろう」と先に言います。正論はそのあとでかまいません。この30秒が、夫婦の会話の空気を大きく変えます。地域の場での会話にも、そのまま使えるひと言です。
中島輝より一言
中学生の頃、私はバスケットボール部にいました。試合に勝つと、チームメイトは抱き合って大喜びします。けれど私だけは、うれしいはずなのに表情が動かず、一人だけ無表情でした。感情を出すことを、幼い頃にやめてしまっていたからです。だから、喜びを表に出せない男性の気持ちが、私にはよくわかります。表情に出ないからといって、何も感じていないわけではありません。感じているけれど、出し方を忘れているだけなのです。出し方は、何歳からでも思い出せます。まずは「うまい」「気持ちいい」と、小さな言葉を口に出すところから始めてみてください。
仕事を手放したあとの生き方については、在職中の変化を扱った役職定年をテーマにした記事もあわせて参考にしてください。
妻のためのコラム|「毎日家にいられても」と感じたら
ここからは、退職した夫の隣で暮らす妻の方へ。夫が一日中家にいて、昼食のたびに「今日は?」と聞かれる。出かけようとすると行き先を尋ねられる。自分の時間がなくなったように感じ、息が詰まる思いをしている方も多いのではないでしょうか。そう感じるのは、あなたが冷たいからではありません。長年かけて築いてきた自分の生活のリズムが、急に変わったのですから当然のことです。
そのうえで、少しだけ知っておいてほしいことがあります。夫の「どこへ行くんだ」「何時に帰る」という言葉は、支配したいからではなく、置いていかれる心細さから出ていることがあるということです。気持ちを言葉にする習慣がない男性は、「さみしい」「不安だ」と言えない代わりに、質問や不機嫌という形で気持ちを出すことがあります。
「置いていかないでほしい」が隠れていることがある。
夫の言葉をそのまま受け取ると、腹が立つこともあるでしょう。その奥にある気持ちを想像すると、少し違って見えてきます。ただし、だからといってあなたが我慢し続ける必要はありません。
妻ができる、無理のない関わり方
- 「家にいないで」ではなく、「私は週に○回、一人の時間がほしい」とIメッセージで伝える
- 「どこか行けば?」ではなく、「公民館に料理教室があるみたい」と具体的な情報を一つだけ渡す
- 夫が出かけて帰ってきたら、「どうだった?」より「楽しかった?疲れた?」と気持ちで聞く
- 夫の小さな変化(自分でお茶を入れた、散歩に出た)に気づいて言葉にする
- あなた自身の友人や趣味の時間を手放さない
夫婦の気持ちのすれ違いは、どちらか一方が頑張るだけでは解消しません。妻が自分の気持ちを大切にすることは、わがままではなく、夫婦関係を長持ちさせるための土台です。50代以降の女性の人間関係と感情については、夫が気持ちを話さない、親の介護に疲れた…|50代からの人間関係と「感情迷子さん」でも詳しく紹介しています。
よくあるご質問
「好き」「楽しい」「うれしい」の中にある。
居場所づくりは、気持ちのひと言から。
これからは、その感情を自分のために使っていいのです。
自分を大切にしよう
定年退職は、仕事だけでなく、毎日行く場所、話す相手、役割と肩書きという「居場所」を一度に手放す出来事です。その空白の中で、さみしさや心細さ、自分の価値を見失ったような不安が生まれるのは自然なことです。けれど、「男は感情を見せるな」という価値観の中で生きてきた男性ほど、その気持ちを言葉にできず、いらだちや閉じこもりとして表に出てしまうことがあります。
気持ちの言葉は、何歳からでも取り戻せます。家の中では、感情タイムアウトや感情だけ日記で自分の内側を確かめ、妻の話には「大変だったね」と共感の一言を。地域には、趣味のサークル、ボランティア、シルバー人材センター、男性向けの料理教室など、話さなくても居られる小さな入口から入ってみてください。肩書きの代わりに、「最近これが楽しみなんです」という気持ちの自己紹介を持っていきましょう。そして妻の方も、自分の時間と気持ちを大切にしてください。
会社のために、家族のために、感情を脇に置いて走り続けてきた日々は、決して無駄ではありません。これからの時間は、その感情を自分のために使っていいのです。自分を大切にしよう。何も肩書きがなくても、あなたはここにいていい。その感覚を取り戻したとき、家にも地域にも、自然と居場所が広がっていきます。
相談先の例
市区町村の社会福祉協議会(ボランティアセンター)、公民館・地域センター
シルバー人材センター、地域包括支援センター(高齢者の暮らしの総合相談)
かかりつけ医、自治体の保健センター・精神保健福祉センター
こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556
本記事の参考資料・科学的根拠
- 中島輝『感情を言語化すれば人生はうまくいく 感情迷子さんの本』(近刊)
- 中島輝・自己肯定感アカデミー「アレキシサイミア 感情の鈍麻:失感情」講座資料
- Taylor, G.J., Bagby, R.M., & Parker, J.D.A. (1997). Disorders of Affect Regulation: Alexithymia in Medical and Psychiatric Illness. Cambridge University Press.(邦訳『アレキシサイミア―感情制御の障害と精神・身体疾患』星和書店)
- Levant, R.F. (1992). Toward the reconstruction of masculinity. Journal of Family Psychology, 5(3-4), 379-402.
- Lieberman, M.D., et al. (2007). Putting feelings into words: Affect labeling disrupts amygdala activity in response to affective stimuli. Psychological Science, 18(5), 421-428.
- 内閣府(現・内閣官房孤独・孤立対策担当室)「人々のつながりに関する基礎調査」

自己肯定感の第一人者である中島 輝と共に、自己肯定感の重要性を多くの人に伝えるために活動中。講師としての登壇経験が多く、自己肯定感をはじめとするセラピー・カウンセリング・コーチングの知識が豊富。メディアサイト「自己肯定感ラボ」を通じ、誰もが輝いて生きていくための情報を発信中。







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