HISTORY

ヒストリー

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HISTORY~ 中島輝のヒストリー ~

中島輝の今につながる10のストーリーをお届けします。

「人からもらった恩を感謝で受け取り、感謝で恩を返していく。」

「人から与えられた愛を感謝で受け取り、感謝で愛を与えて行く。」

「この世界であなたが恩を感じたとき、それは脈々と受け継がれた人間の謙虚さに触れているのかもしれません。」

「この世界であなたが愛を感じたとき、それは脈々と受け継がれた人間の優しさに触れているのかもしれません。」

「あなたが今の自分を受け入れて、感謝の心で生きることは、人類の財産となるのです。」

  1. Story 01

    「家族の在り方がわからない……孤独な子供時代」

    酒蔵を営む家系に生まれ、家業が多忙な中、家族との心の絆を感じられないまま寂しさを抱えて過ごした子供時代。孤独な日々にさらに追い打ちをかけるような事件が……。

    私の家族は古くて大きな家に住んでいました。代々酒蔵を営む家系で、酒造り時代の建物を自宅として使っていました。

    帰宅すると店舗の入り口を通り、日常生活は事務所と繋がっている居間で過ごします。家の中には父、母、姉、私、住み込みの従業員さん、そして離れには曽祖父と曽祖母が暮らしていました。

    家族以外の人が常に家にいたため、典型的な家族の会話はなく、父は常に外出していて、母も深夜まで仕事に追われていました。両親は私の育児に手が回らず、姉は母の実家で、私は車で15分ほど離れた親戚に預けられました。

    両親はもちろん私たちのことを思ってくれていたでしょう。しかし、親子らしい交流がほとんどないままに育った当時の私にはただただ寂しさしかありませんでした。そして私が五歳の時、私が預けられていた里親も予告なく姿を消したのです。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第1章 誰も信じられない
  2. Story 02

    「もう誰も信じない……深い喪失感と孤独の闇の中へ」

    本当の子どものように可愛がってくれた里親のパパとママ。しかし安心していたのも束の間、ある日突然、里親が姿を消してしまった……。

    五歳の夏、里親の「パパ」と「ママ」が突如姿を消しました。いつも通り幼稚園から帰ると、家の前に人だかりが。中を見ると、家には何もかもがなくなっていました。原因は「パパ」の事業失敗と借金による夜逃げだったようです。驚きと同時に私は裏切られたと感じました。

    さらに衝撃的だったのは、周囲の大人たちが愛していた「パパ」と「ママ」の悪口を言っていたことです。その瞬間、私は世界は敵だらけだ、人は信じられないと感じ、自分だけが頼りだと悟りました。

    この経験から、感情を表に出さず、弱さを見せないと決意しました。喪失感と絶望、そして孤独に襲われ、長い間、暗闇の中一人でさまようようになりました。

    あの時、もし私が自分の両親に本音を伝え、助けを求めていたら…その後の人生は変わっていたのかもしれません。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第1章 突然いなくなった「パパ」と「ママ」
  3. Story 03

    「哲学の扉を開いた一冊……エマソンの言葉が私を導いた」

    精神的な症状を誰にも言えず、一人悩みながらも哲学者エマソンに自身の境遇を重ね、その言葉に励まされた小学生時代。

    小学4年生の頃から、幻聴や幻覚など、精神的な症状が出始めました。しかし、変に思われるかもしれないと考え、誰にも言えず、ますます孤独を感じるように……。

    他の子と遊ばずに一人で本を読んでばかりいた私は、小学五年生の時、図書館で偶然手にした『ゲーテ格言集』によって、はじめて哲学と出会いました。

    ゲーテの言葉が、里親の喪失からくる疑問に答えてくれるようでした。

    この経験から、私は哲学書を次々に読み始め、プラトン、カーライル、ソクラテス、ニーチェなどの哲学者たちと出会いました。

    難解なものもあった中で、ラルフ・ウォルドー・エマソンの本の「自分を信じることが大事」というメッセージが心に響きました。エマソンの困難な人生に共感し、その言葉が私を励ましてくれました。

    エマソンは19世紀のアメリカで哲学者や文学者として活躍しました。苦しい環境や喪失の経験を抱えながらも、自分を信じて生き方を貫き、その思想が多くの人々に影響を与えました。同じく、里親の喪失体験のあった当時の私はエマソンの人生が自分にとって身近に感じられたのです。そして彼の言葉が私を助けてくれる存在となりました。

    2017年、エマソンに関する本を出版する機会がありました。著書『エマソン-自分を信じ抜く100の言葉-』は、私自身を救ってくれたエマソンの言葉を通じて、今度は私が他の人を救えるかもしれないという思いから生まれたものです。

    著書:『エマソン 自分を信じ抜く100の言葉』(朝日新聞出版)
  4. Story 04

    哲学の道での出会い―みかえり阿弥陀如来がくれた奇跡

    大学受験の失敗、そして京都でのある出会いにより、本当の気持ちに向き合うことに……。

    円形脱毛症、不安神経症、強迫観念、躁鬱などの症状に悩まされながらもなんとか高校を卒業。

    しかし19歳の私は大学受験の結果に途方に暮れ、「これからどうしようか」と迷走していました。死ぬ思いで勉強に専念し、模試の成績も良好だったはずが、手にした結果は思っていたものとは違っていたのです。私は京都の「哲学の道」を歩きながら人生の方向性を模索することにしました。

    「哲学の道」は京都の哲学者、西田幾多郎先生が思索にふけりながら散歩したことで有名な場所です。まだ肌寒い3月、人もまばらな哲学の道を歩き、途中で偶然立ち寄ったお寺で「みかえり阿弥陀如来」に出会った瞬間、なぜか感動と涙がこみ上げてきました。

    そしてこの不思議な仏像に向き合うことで、心の底から「大学に行きたい」という本当の気持ちに気づいたのです。

    「合格した大学に行こう!」自分を否定し続けていた過去に囚われず、受け入れることで、心がクリアになりました。最初から大学に進学することが望みだったんだ……。みかえり阿弥陀如来との出会いを通じて、奇跡的に自分の本心に向き合うことができたのです。

  5. Story 05

    「私を変えたある少年との奇跡の出会い」

    むなしさと自己嫌悪でたびたび死を考える中、自分を必要としてくれる存在が私を救ってくれた。

    20代前半、私は様々な精神的な病と戦い、心身ともに限界に達していました。希死念慮(=死ななければいけないと思うこと)に襲われるため、何も考えなくて済むように、10種類以上のバイトを掛け持ちしていましたが、電車での不安神経症の発作を避けるため、自転車でバイトに通う日々。しかし、体調不良で遅刻が多くなり、高校生から叱責されることも…。

    絶望の中で自殺を考える中、一人の少年Sくんの存在が光となりました。「自慢のお兄ちゃん」と呼んでくれたSくんの家庭の事情から一緒に過ごすことに。

    Sくんは足が動かず、指も少ししか動かせないという障害があるにもかかわらず、感謝の言葉を絶やさず、誰かに頼りながらも前向きに生きていました。その姿勢が私に勇気を与えてくれたのです。

    Sくんとの交流を通して、私の心は変わり始めました。彼を助けることで生きる喜びを見いだし、「私は生きていていいのかもしれない」と感じられるようになったのです。Sくんの純粋な存在は私にとって奇跡であり、その出会いが後に心理カウンセラーとしての人生につながることになりました。

    大切なことに気づかせてくれたSくんに感謝し、私は今も彼との友情を大切にしています。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第2章 自分を必要としてくれた男の子
  6. Story 06

    「多額の借金を抱えた家業を守るため奮闘」

    バブル崩壊からの多額の借金。家業を継いだ私はさまざまな厳しい状況に直面し、パニック障害を抱えながらも会社の存続に全力を注いだ。

    曽祖父と父が興した会社は順調に拡大し、従業員も2倍3倍と増加していました。

    しかしバブル崩壊で多額の借金を抱え、25歳で家業を継いだ私は厳しい状況に直面しました。会社の借金は予想以上で、自殺まで考えるほどの絶望的な状況にも関わらず、会社の存続に全力を注ぎ続けました。

    この執念の背後には、「里親の喪失体験」が大きく影響していました。5歳のときに里親が急に夜逃げし、その際に「見捨てられた」と感じ深い傷を負ったこと。

    自分が逃げることで他者に同じ苦しみを味わわせたくない……家族や従業員、取引先に責任を果たすために立ち向かいました。

    「やるしかない」という強い思いで、朝から晩まで働き、あらゆる手段でコストカットを試みました。営業時間の延長や空ビンの回収、制服手洗いなど、苦しい状況下でさまざまな工夫に取り組み、月末の支払いに追われながら次の月の支払いの心配から焦燥感に悩まされる毎日。

    会社の経営と精神的な病もあり、生きるのに必死だったため記憶が曖昧になるほど。「私は何のために生きているのか?」という問いに答える余裕すらありませんでした。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第3章 外に出るのが怖い
  7. Story 07

    「パニック障害を克服するためのトレーニング」

    会社の借金を背負い、パニック障害を抱えながら孤独と絶望の日々。しかしどん底に落ちたときに暗闇の中で見出した一筋の光。

    パニック障害に苦しんでいた私は、家から出るため車に乗り、できる限り遠くに行くトレーニングを試みました。

    しかし、この挑戦は「やるしかない」という一縷の望みでありながら、無力感との戦いになりました。

    初日は車のエンジンをかけることもできず、数ヶ月が経っても家の前を往復するだけで限界。数ヶ月後、最初の信号で直進できるようになったものの、次の日には再びできなくなりました。

    1日1メートルずつ前進し、10日かけて10メートル進んだものの、次の日には進めなくなり、振り出しに戻るという繰り返し。調子が良く遠くまで行けた日でも、その後には「もうここには二度とこられないかも...」という不安が湧き上がり、何かしないといられないような気持ちになって車から降り、奇妙な行動に出たことさえありました。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第4章 もっと、遠くへ…
  8. Story 08

    「命の恩人に捧げる感謝と新たな決意」

    命の恩人の訃報、しかし外に出ることができず、葬儀に出ることもできない……。しかしこのことが私の人生の転機となった。

    K社長は私の小さい頃からの家族の友人であり、厚い親交がありました。

    彼は私が抱える困難を理解し、その支えは私にとって不可欠なものでした。叱咤激励や優しい言葉、無言のハグなど、K社長との交流のすべてが私にとって救いとなっていたのです。ところが車トレーニングに励む34歳のとき、そのK社長が亡くなったという知らせを受けたのです。

    私はK社長の社葬に参加することを心に誓い、その思いがパニック障害に打ち勝ち、前進する原動力となりました。

    社葬の場所は私が10年前にパニック発症した場所で、まだそこまでの距離を運転できる状態ではありませんでしたが、K社長への感謝の気持ちだけを胸に、這いつくばってでも葬儀に参加することを決意したのです。

    社葬当日、K社長の優しい顔写真を見つめながら感謝の涙を流しました。

    「もうK社長に恩返しすることはできない。」

    それならばせめて、K社長のように人に必要とされる存在、人の役に立つ人になることを決心したのです。

    そして私は10年間続いた引きこもり生活に終止符を打ったのでした。

    参考:『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』(PHP研究所)
    第4章 大切な人の死を超えて
  9. Story 09

    「ありのままの自分を受け入れる大切さに気付く」

    車トレーニングが順調に進み、ついに東京までたどり着く。完璧主義は手放し、ただベストを尽くして結果を受け入れるだけでいい。

    初めてパニック障害の発作が起きたT市に、K社長の社葬がきっかけで行けたことは私にとって大きな自信になりました。

    その日を境にT市までの移動がスムーズになり、新しい道も問題なく運転できるようになり、高速道路にも挑戦できるように。毎日のトレーニングの効果に喜びを感じ、ついに東京の上野駅まで車でたどり着くことができたのです。

    上野まで行けたことでさらに大きな認識の変化が起きました。

    これまでの完璧主義から、「ただ今の自分のベストを尽くすだけ。その後の結果はただ受け入れるだけ。」という考えに変わったのです。

    過去の自分との比較や理想の自分へのこだわりが薄れ、ありのままの自分を受け入れることの大切さにここでやっと気付いたのです。

  10. Story 10

    「大切な人たちへ……命ある限り恩返しを」

    辛い日々を支えてくれた人たちとの別れ……今はもう感謝を伝えることもできない大切な人たちのために、この宇宙に恩返しすることを誓った。

    上野まで来られた私は、従業員のNさんに感謝を伝えるために電話し、泣きながら上野にいることを伝えた。

    Nさんは理解し、「ありがとう」と伝えると、彼女も泣きながら共感してくれました。

    Nさんは私の辛さを理解し、私のそばで助けてくれた存在。この出来事が回復のスピードを加速させ、心の病から解放されていくきっかけとなったのです。

    Nさんとの縁は小学生時代まで遡ります。姉の友達である彼女はスポーツが得意な元気な女性でしたが、難病を発症して入院、そのあとも入退院を繰り返していました。その後、彼女は中島家の仕事を手伝うようになり、私が実家に戻ってきた24歳の頃から深く関わるようになったのです。

    Nさんは私の苦しみを理解し、常に支えてくれました。私がエステの開業をした時も手伝ってもらい、一緒に夢を膨らませていました。しかしそんな中、彼女は再び倒れ、一年も経たずに脳梗塞で急逝してしまったのです。

    「こんなことになったのは自分が彼女に無理をさせたからだ。」自分を責めても、Nさんが生き返ることはありません。私は「Nさん、ごめんね。ありがとう。」と言葉をかけることしかできませんでした。

里親のママ、K社長、Nさん。

この宇宙のどこかへと消えてしまった、私にとって大切な人たち。

私は彼らに感謝しています。

だから、私は感謝の気持ちとして、命ある限りこの宇宙に恩返しをしていきます。

祈る中島輝さん